コラム

裁判例 不貞慰謝料請求

高額な慰謝料支払いの念書が無効となった事例

弁護士 長島功

 不倫による慰謝料の支払いを求める際、証拠にするために、相手に念書を差し入れてもらうということがあります。念書があることにより、支払を約束したことが明らかになりますので、念書の作成は支払いを受ける側からすると、有益なものではあるのですが、今回は、その念書が心裡留保により無効となった事例(東京地裁H20年6月17日)についてご紹介しようと思います。

1 心裡留保について
 まず、心裡留保というものがどういうものなのかについてご説明しようと思います。心裡留保というのは、民法93条に定めがあり、意思表示をしようとする人が、表示に対応する意思がないことを知りながら行う意思表示のことをいいます。分かりやすくいうと、例えば100万円払うつもりがないのに、100万円払いますと言うような場合です。このようないわば嘘の意思を示す人を保護する必要はありませんので、このような心裡留保による意思表示でも有効とされるのが原則です(民法93条1項本文)。しかしながら、意思表示を受けた相手が、その意思表示が真意でないことを知っていたり、知ることができたといえるような場合には、その意思表示は無効となります(同条1項但書き)。先の例でいえば、100万円を払いますと言われた側も、この人は100万円払うつもりがないということを知っていたり、あるいは知ることができたといえる場合には、無効となります。
 ご紹介する裁判例では、被告よりこの心裡留保による無効の主張がなされたことから、以下事案の概要とともにご紹介します。

2 事案の概要
 原告の妻Aは、知人を介して被告と知り合い、約5か月の間に20回程不貞行為に及んでいました。
 そこで、これを知るに至った原告はホテルのラウンジで被告と会い、慰謝料に関する話し合いを行いました。その席で被告は原告の言われるまま、慰謝料1000万円を3年以内に支払うこと、支払時期等に関する返事の期限、被告と妻Aとの不倫の慰謝料とすることを内容とする書面を作成し、署名をしました。
 その後、支払時期等について返事をする期限が到来したことから、再び原告と被告はホテルの喫茶店で面会をしましたが、被告は原告に対し、1000万円を支払う意思はないことを伝えたことから、原告より支払を求めて訴えが提起されました。
 この裁判では被告から1000万円を払うという意思表示は、被告の真意に基づくものではなく、原告もそのことを認識していたとして、合意が無効であるとの主張がなされました。

3 裁判所の判断等
 まず判決では、原被告がホテルで会った際、原告が声を荒げるなど、原告と被告との間が険悪になったなどの事実は特段認められないことや、原告からの慰謝料請求に対し、被告が慰謝料を支払うこと自体については直ちに了承していること、原告からの提示額に対して、長時間抵抗した形跡も認められないことなどの事情より、合意が有効という原告の主張も理解できないでもないと判示しました。もっとも、裁判所は「しかしながら」として以下のように続けました。
 「一般に、不貞行為者は、自己の不貞の交際相手の配偶者との直接の面談には心理的に多大な躊躇を覚えるものであり、一刻も早くそれを終わらせたいと考えることが自然であると認められるから、慰謝料を請求されてもその支払に抵抗せず、また、高額な慰謝料額を提示されたとしても、減額を求めたり、その支払可能性等について十分に考慮することなく、相手方の言うがままに条件を承諾し、とにかく面会を切り上げようとする傾向が顕著であると考えられる。加えて、本件合意における1000万円という慰謝料額は、一般の社会人にとって極めて高額な金額といい得るばかりではなく、不貞相手の配偶者に対する慰謝料額としても相当に高額であることは明らかである。」
 裁判所はこのように理由を述べ、被告はその内心の真意としては、原告に対して1000万円の慰謝料を支払うつもりはなかったと認めるのが相当と判示しました。そして、不貞行為者が自己の交際相手の配偶者と面会する際に覚えるであろう心理的な抵抗感については、原告においても十分に認識可能であったというべきであり、また、それだからこそ原告は、口頭の合意のみならず本件念書の作成を被告に求めたと考えられるとして、原告が真実被告が1000万円の支払をするつもりがあるのかどうかについてはなお疑いを抱いていたと認めることが合理的であるし、少なくとも慰謝料として1000万円を支払うという意思が被告の真意ではないことについて、知り得べきであったとして、被告の意思表示は心裡留保として無効としました。
 なお、原告は合意が無効とされる場合に備えて、予備的に不法行為に基づく慰謝料の請求も行っていた関係で、結論としては、被告に300万円の慰謝料の支払いが命じられています。

4 慰謝料の支払いに関する書面を取り交わす際、支払を受ける側は高額の支払を何とか約束させようとするかと思いますが、脅したりせず、如何に平穏に書面を取り交わしたとしても、このように意思表示が無効となってしまうケースはあります。慰謝料を請求しようとされている方はもちろん、実際に高額の慰謝料を書面で約束してしまったという方も、一度弁護士にご相談されることをお勧めします。